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神への備え

2021年2月14日(日)礼拝メッセージ

イザヤ書21章13-17節

「神の備え」

 

 先週私たちはイザヤ書21章11,12節のみ言葉から、ドマ、すなわちエドムに関する預言の言葉を学びました。エドムというのは、イスラエル王国の先祖であるヤコブのお兄さんにあたるエサウから誕生した国と言われています。このエドムが、紀元前712年と701年に北の大国アッシリアの二度に渡る攻撃により、侵略されてしまいます。エドムの人たちからすると、闇の時代が訪れるわけです。そこで彼らは「いつになったら朝が来るのか。いつまでこの闇の時代は続くのか」と叫ぶといいます。この叫びに対してイザヤは「必ず夜明けは来る。でも、再び別の問題が降りかかって来た時は、私のところを訪ねなさい。」と告げました。彼の言葉を通して私たちは、主なる神様が、イスラエル人以外の異邦人に対しても恵み深いお方であられることを前回は学びました。

 今日私たちが学ぶ箇所には、このエドム王国から更に南に下ったアラビアについての宣告が書かれています。このアラビアは現在のアラビア半島を指しています。

さて皆さん、アラビアと聞いた時、皆さんはどんな場所をイメージされるでしょう。恐らく砂漠ではないかと思います。当たっています。実際このアラビア半島は、中央から北部、更には南東部にかけてずっと砂漠が広がっています。笑っちゃうほど砂しかないわけです。ただ、南部から南東部にかけての沿岸地帯は、比較的農耕に適した気候となっていますので、全てが砂漠というわけではありませんが、やはりほとんどが砂です。では、こうした殆ど砂漠で覆われたアラビア半島の国々は、一体何を売って生計を立てているのか皆さんはご存知でしょうか。そう石油です。1951年、ガワール油田が生産を開始したことにより、サウジアラビア王国が巨万の富を手にします。これが、今のアラビアの現状です。

でも、今はこうした天然資源によってこの半島は経済的に潤っていますが、イザヤの時代はもちろん石油など掘り起こされていません。では、この時代、アラビアの人々はどのように生計を立てていたのでしょう。

まず13節を読んでみたいと思います。アラビアについての宣告。デダン人の隊商よ、アラビアの林に宿れ。

イザヤの時代、アラビアの人たち、特にデダンという地に住んでいた人たちは他国との交易を通して生計を立てていました。その際彼らが売っていたのがラクダといった家畜類です。かつてイスラエルの王ソロモンも、アラビアの人たちと交易をしており、ラクダを輸入していたと考えられています。ただ、当時は今と違いバイクも車もトラックもありません。石油もまだ地下に眠った状態です。ですから、ラクダを売りに行くために旅をするにしてもめちゃめちゃ時間がかかるわけです。もちろん、危険も多くありました。そのため彼らは、長旅をする際必ず団体で移動しました。この団体を隊商と呼び、英語ではキャラバンと発音します。日産の車にもNV350キャラバンというものがありますが、その名の通り長旅に最適の車です。

先週の金曜日の午後も、いつもお世話になっているジムブレーンの方々が、このキャラバンみたいな大きな車に乗って当教会を訪ねて来てくださいました。その車には最新型のエプソンのコピー機が載せてありまして、このコピー機の性能をわざわざ説明するために、訪ねて来てくださったのです。必死さが伝わってきました。

デダンの人たちも同じです。彼らは生計を立てるために必死です。どんなに危険でも、家族を養うためには外に出て行かなければなりませんでした。

ところが、このデダンの隊商に対してイザヤはこう語ります。「アラビアの林に宿れ。」ここでいう林というのは、普通、人の近寄らない、荒れた雑木林を指していると考えられます。殆どが砂漠の地でも、所々林の生い茂っている地域があったのでしょう。ではなぜイザヤはこのように告げたのか。それは、彼らが向かう北の方からは、あのエドム王国を侵略したアッシリアの軍隊がやって来るからでした。ですから、デダンの一団がそのまま北上していけば、南下してきたアッシリア軍と鉢合わせすることになるわけです。そうなったらどうなるでしょう。当然たった一個の団体が、当時オリエント最強だった軍隊とやり合って勝てるわけがありません。例えるなら戦車対NV350の戦いです。実際デダンの人たちは、アッシリア軍にこてんぱにやっつけられ、散らされてしまうのでした。

しかしながら、こうした悲惨な運命が待ち受けるデダンの一団のために、主はイザヤを通してこう語られました。14節「テマの地の住民よ、乾いている者を迎えて水をやれ。逃れて来た者にパンを与えよ。」冒頭にテマの地と出て来ました。このテマは、アカバ湾頭から南東へ320キロほど下った場所にあります。どんな場所だったかといいますと、そこには肥沃なオアシスがありました。もちろんロックバンドの名前ではありません。このオアシスというのは、砂漠の中で、水が湧き、木が生えている場所を意味します。乾いている人たちからすると当に楽園です。実際辞書を調べるとこの言葉は、疲れをいやし、心に安らぎを与えてくれる場所という意味もあるそうです。いずれにしても、イザヤはこのテマの人たちに、アッシリア軍と衝突して、逃れて来たデダンの人たちのために、水をやり、パンを与えてあげなさいと勧めるわけです。その際、イザヤは彼らがどんな姿でテマに逃れて来るかということについても言及しています。15節「彼らは剣や抜身の剣から、張られた弓や激しい戦いから逃れて来たのだから。」この言葉によれば、デダンの商人たちは、ただ飢え乾くだけでなく、敵の剣や弓による攻撃で傷つき、ボロボロの状態で逃れて来るようです。非常に気の毒な話です。家族を養うために交易を行おうとして旅をしていたら、道中めちゃめちゃ強い軍隊に攻撃されてしまうわけですから。

 ところが、このアッシリア軍の被害に遭うのは、何もデダンの隊商だけではなかったようです。イザヤによれば、このアッシリア軍が南下してくることで、アラビア北部では大変なことが起こるといいます。16節「まとこに、主は私にこう言われる。『雇い人の年季のように、もう一年でケダルのすべての栄光は尽きる。

 私が二十歳前後の頃のことです。ある会社の期間従業員として働いていました。その名の通り、働ける期間が決まっているわけです。働いている期間は、本当に安心でした。会社側がいろんな保証をしてくれて、明日何を食べようかという心配もする必要がないからです。ところが、満了日が近づくにつれて、徐々に不安な気持ちが大きくなっていきました。しかもその頃、丁度リーマンショックの影響が日本を初め世界中に広がっており、不安な気持ちが更に膨れ上がりました。

 こうした働き人の年季を例えに用いて、主はイザヤに、もう一年でケダルのすべての栄光は尽きると語られたと言います。さて、ここにケダルと出て来ましたが、このケダルはオアシスのあるテマから更に北に上った場所にあります。この地の人々は、天幕生活をしていたいわゆる遊牧民でして、弓に長じた勇猛な種族でした。アジアの間隔で言うモンゴル民族です。

因みに皆さんは、モンゴル民族についてどれくらいご存知でしょうか。かつてこの民族は、ユーラシア大陸の4分の3くらいをものにしました。モンゴル帝国にとっては当に栄光の時代です。

ですから、私たちが思っている以上に、この遊牧民というのは強いです。ケダルの遊牧民も同様です。そしてその強さは、彼らの栄光でもありました。ところが、この栄光に輝くケダルの人々が、アッシリアの軍隊の餌食となってしまうわけです。そして、その日はすぐそこまで近づいていました。主は最後にこうおっしゃられました。17節「『ケダル人の勇士たちで、残る射手は数少なくなる。』まことにイスラエルの神、主が告げられる。」ここにあるように、あの誇り高きケダルの勇士たち、射手たちの殆どがアッシリア軍に潰され、残されるのはわずかだと、主はお告げになりました。

 以上が今日の箇所の解説となります。では今日の箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょう。全部で三つあるのではないでしょうか。

1.人生には人間の力ではどうにもならない問題が起きることがある

 今日の箇所で出て来たデダン人の隊商のことを思い起こしてみましょう。生活のために、わざわざ団体を組み、ラクダを売るために長い時間をかけて旅をする彼らの姿から感じられるのは必死さです。でも、そんな彼らの前に、突如としてアッシリア帝国という、どうあがいても勝ち目のない相手が現れるわけです。

 私たちにも同じことが言えます。生活のために、何時間も車を走らせる方もいますし、寒い中、一軒一軒訪ねてパンを売る方もいます。数週間前、伊吹おろしで身も凍り付くような寒さの中、ある方が荷車を引いてパンを売りに来られました。あまりにも気の毒になってパンを3つ買いました。非常に美味しかったのでもっと買っておけば良かったと非常に後悔しました。

 でも、こうした努力をあざわらうかのような大きな問題が、人生の中で実際起こります。営業に行こうにも行けない事情が出てきたりするわけです。コロナのこともそうですが、昨日も関東、東北で非常に大きな地震がありました。人生には人間の努力ではどうにもならない問題が実際に起きます。

2.神は傷ついた人々に休み場を提供される

 ボロボロに傷ついたデダンの人たちのために、イザヤが語った言葉を思い起してみましょう。彼はテマの住民にこう呼びかけました。乾いている者を迎えて水をあげなさい。逃れて来た人たちにパンを挙げなさい。彼らは剣や弓でボロボロに傷ついているのだから。

 最近は、コロナの影響もあってか、貧富の差が激しくなっています。そう考えると、普段食べる物が与えられているというのは本当に感謝なことです。しかしながら、私たちが渇くのは、何も喉だけではありません。私たち空かせるのは何もお腹だけではありません。私たちは時に、心がカラカラに乾いてしまうことがあります。愛に飢えることがあります。それだけでなく、言葉の剣や弓によって、心を傷つけられてしまうこともあるでしょう。ですから、私たちもまた、あのデダンの人たちのように、精神的にボロボロになってしまうことが現実問題あるわけです。でも、そんな私たちのために、神様は休み場を備えてくださっています。それこそが当に、イエス・キリストです。

 イエス様はかつて、五回結婚に失敗して心がカラカラに渇いていたサマリヤの女性に対してこうおっしゃられました。ヨハネの福音書4章14節「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のちへの水が湧き出ます。」イエス様が与える水を飲むとはどういうことでしょう。それは、イエス様を信じるということです。なぜなら、その信仰は、その人の心の内でオアシスを作り出すからです。また、イエス様は別の場面でこうもおっしゃられました。ヨハネの福音書6章51節「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」このように、イエス様はご自身を天から下って来た生けるパンだとおっしゃられました。このパンを食べる人は、永遠に生きると言います。これはつまり、イエス様を信じる者は、いつまでも、イエス様の愛に生きることができるということです。

 このように、神様は現代に生きる私たちにもの心の飢え渇きや傷を癒すためにイエス・キリストと言う休み場をそなえてくださっています。

3.人の栄光はいずれ尽きるが神の栄光は永遠に続く

 主なる神様がイザヤにお語りになったケダルに対する言葉を思い出してみましょう。「雇人の年季のように、もう一年でケダルのすべての栄光は尽きる。」主はそうおっしゃられました。あの有力者であるケダルの民が、あの勇敢な遊牧民の栄光が、もう一年で尽きてしまうわけです。

栄光の光というのは、いつまでも輝き続けるわけではありません。必ず尽きる時が来ます。モンゴル帝国のように、ユーラシア大陸の4分の3をものにできた時代もあれば、衰退する時代もあります。若かりし時代もいつまでも続くわけではありません。いずれその時代は過ぎ去っていきます。伝道者の著者も、すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があると言いました。人の栄光はいつまでも輝き続けることはありません。どこかでその光は尽きます。

しかしながら聖書は、決して尽きることのない栄光もあると教えています。それこそが当に、十字架におかかりになった後に復活を遂げられた、あのイエス・キリストの栄光です。この栄光は、どんな暗闇も、死の暗闇さえも消すことのできない永遠の輝きを放ち続けます。

使徒パウロはテモテへの手紙第二2章10節でこう述べました。「ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。

 

ここに、永遠の栄光と書かれています。この言葉の通り、イエス・キリストを信じる者に与えられている栄光は決して尽きることがありません。主は信じる者たちを、聖霊様を通して、ご自身の輝きの中を歩ませてくださいます。この確信に立ちつつ、この一週間も、このお方が私たちにそなえてくださっている栄光の輝きに生きていこうではありませんか。